昭和51年11月19日  朝の御理解   ●9 大坪かよこ

御理解第88節 
 昔から、親が鏡を持たして嫁入りをさせるのは、顔をきれいにするばかりではない。心につらい悲しいと思う時、鏡を立てて、悪い顔を人に見せぬようにして家を治めよということである。




 この八十八節を皆さんにいろいろ聞いて頂くという、いよいよ広がりに広がっていく、八十八節からそれをいつも思うんです。
八のプラスの八と、ね、いよいよ、広がりに広がっていく繁盛のおおみかげを頂くということのために、この御教えを信心のあるものとしての頂き方、がなさらなければならないということであります。
これは信心がなくても、ね、このところを、は、通用するわけです。
鏡を持たせて嫁入りさせるのは、決して顔をきれいにするばかりじゃない。つらい悲しい時に、鏡を立てて、人に悪い顔を見せぬようにと、というのですから信心のないものは一つの嫁入りをさせる娘に対するま、教訓の、ですけれども、それだけでは決して広がりに広がるということになりません。
これを信心で頂いて初めて広がりに広がるというおかげになるのです。
たとえば、つらい悲しいというような時、そのことがどういうようなことでつらいのか、どういうことで悲しいのか、日頃教えを頂いておりますと、その教えがすぐ頭にひらめいてきます。こりゃ悲しいことじゃないたい。これは腹を立てることでもない、ね、つらいなどとはもちろんことではない。神様にむしろお礼を申し上げなければならない、ことであったという治め方、それを私は、治めるという字ね、さんずい辺にム口と書く。
そのいわばム口でというのも、なら、黙って治めるというだけではない。
ね、祈っていく、お礼を申していく、そういう内容なんですね。
そのこと自体はお礼を申し上げることなんだ。または自分が反省させて頂かなければならないことだ。
そこに私は祈っていく、そういう生き方がいよいよ身に付いたとき、私は八十九節から頂くならば、此方の道は傘一本で開ける道ということになるです。
安心なんです、ね。そういう頂き方をして初めて八十八節、ね、広がりに広がっていくおかげ、皆さんどうでも一つね、そういうおかげの頂けれる信心を願い求めて、信心の稽古をさせてもらわんやいけない。
昨日、日奈久の富永先生が、御大祭のお礼に参拝して見えました。
大変におかげを頂いてというてま、いつものように、ま、行き届いたお礼参拝でした。
昨日の言葉に、今日があちらの親教会の御大祭、ですから今日は御無礼して早く帰りますとこう言う。
それでも今からちょうど研修の始まる時間ですから、研修が始まるから、最近合楽の信心がまた大変こう変わって来た。ま、いうならば、もうおかげを頂く決め手というものが、毎日説かれておるから、その研修だけでも頂いて行きなさい、というて、ま研修を一緒に頂いてもろうた。
ほいでもう、改めてまた、いわば目が覚めたような思い致します。
熊本行きの汽車は、そん、そげん急いで帰らにゃなか、いやあるとはいくつでんなりますけど、ほんならもういいじゃないですか、私も四時の御祈念を終ったら下がるから、お食事でんしてお帰んなさい、というて、お食事をさせて頂く時にです、ぼつぼつ話されるんです。
親先生この頃お参りが少のうなりました、ち。御大祭もこの前の御大祭と変わりませんでした。
もうこの頃は御大祭のたんびんに信者が増えて行く、ね、それが全然前と同じだったというわけです。
お参りが減ったというのは、いみらなかったという意味らしい・・?
けれども今度の御大祭には、もういろいろと、ま、いろいろと不思議な働きを頂きました。
あちらは日奈久の温泉街からずーっとこう二、三町ぐらい・・?に入ったところです。
で、大変繁華街であって非常に静かなところ。そこの入り口がようやく自動車がこう、離合はできません。ただ自動車が入るだけの道は、その繁華街から教会の方へ続いております。
とそこの角へ、私があの、ここ角に教会の看板を出されたらどうですか、全然分らん。
私この前、あちらへ行った時、そんなこと言っとりましたら、今度信者の中に看板のおかげ頂かせてくださいという人があったから、そんなら、その合楽の親先生もそげん言いよんなさったから、もうあそこの角の出させてもらおうかと、書いてきたのは良かったけれど、金光教は金光教じゃけど、今光教と書いてある。
私はそればってんそれを見たとき、もう、ほんとに有難いと思うたとこう言われるのです。ね、今という字はこんと読むでしょう。今光教という看板を書いてある。もちろん書きなおしたけれども、その間違い方が、私は有難い。ね、ま、いうなら今をときめくとか、ね、今を盛りにとかと申しましょう。ほんとに、今、あの日奈久の教会には、と言わねばならないほどしのごひれいを最近は頂き続けたけれども、最近はそのお参りが少なくなったとこういうのです。
そして、今日のあの研修を頂きながら、あの改めて分らして頂いたこと、ね、を中心的に話しておられます。
もういよいよ本気で、なるほど成そうと思えば成せること、それは子供でも成せるほどしのこと、ね、成せばなる、成さねばならぬ何事も、成らぬはおのが成さぬなりけり、というこの歌の意味がです、最近難しいことの意味ではなくて、今まで成せば成ると、それは子供でも成せらなることをおろそかにしておったことが分る。これからまたあらたなごひれいを頂くことだろうと自分にも感じなさった、私もそこんところを頂いて帰られたら、おかげになるだろうというふうに申しましたことでした。
ね、ですからやる気十分、いわばそれに取り組むこと十分、この心を作らなければだめです。
どんなに素晴らしい新たな信心、新たな信心というても、ね。
不如意なことがある、どうしてだろうか、そこに御理解を頂いて、ああ、なるほど、そこんところが、欠けておった、合楽ともに欠けておった。
昨日池田先生が前講します時に、合楽では今、いわゆる完璧な信心になったという意味のことを話しておりましたから、それを私がお説教の時に訂正さしてもろうて、完璧ないうならば、信心が成就したとかなったとかいうのじゃなくて、ね、そういう完璧の域と思われる、ね、入ったというだけなんです。なったのじゃない。だからこれはもう限りないことなんです。
というて日田の堀尾先生のお言葉を借りてお話をさせてもらった、ね。
いわゆる未完成のまま永遠にということでございます。
大変素晴らしい言葉だなーと思っておりましたけれどもね、この言葉は、今の合楽で初めて言えれることだということを改めて感じました。
ほんとにどうでしょう、未完成のまま、ね、永遠にというようなことであったら、もういつも同じところをぐるぐるぐるぐる回っておかげも何にも頂かれないです。
いや、おかげは頂かれても、なら、広がりに広がっていくというおかげにはつながらないでしょう。
ね、今の合楽の信心を頂いて初めて言えれる言葉だと。未完成のまま、ね、完璧の域に達したのではありません。完璧の域に、ね、入ったのです。
ですからこれを極めて行くことは永遠にでしょう、おそらく、これで良いということはまずはないでしょう。
けれども昨日よりも今日と分っていく信心。
ね、たとえば昨日あのお話の中に申しましたように、心行一つですらもです、心行のようにもう凝り固まったように私は、今思うております私ですらもです、はあ、こういうところにまだいうならまだ、いうなら表行の一つの名残のようなものがあるということを改めて気付かせて頂いた。
ね、暖房を焚くと、まだまだ十二月に入ってからにしなさい、もう私はそれは信心であると思うておった。ね、私は大変こう寒気がして、風邪ひいとるじゃないだろうかというように布団を何枚も重ねてきらんならんようなところに、と、勘づかせて頂いたのは、ブタン一つ押しや、私の部屋の暖房が付くようになってるのにわざわざ寒い寒いというて布団何枚も重ねて着るようなことで、果たして神様が喜ばれるだろうか、はあ、ここんところが私が考え方が間違っておった、というて家内にすぐにボタンを押させて、暖かになった、布団もすぐに取りはらわさせてから楽になってから、もう体中が痛かった、節々が、それがもう抜けるようにおかげを頂いたという事実を、私は昨日の朝でしたかね、昨日も皆さんに聞いて頂いた。
ね、神様が何ならこの部屋に暖房を、ね、はらもう、汗ん出る・・?
けれどもね、今月いっぱいは我慢する、その我慢がいけないのだということです。
むしろボタン一つを押して、部屋を暖かにしてです、神様おかげ頂いて有難うございますというとどの位神様がお喜び頂くか分らない。そういう信心なんです。今の合楽の。
おかげですっきり致しまして、昨日お話聞いて頂いたように、次々と有り難いお取次ぎを、ま、させて頂きました。
ね、これがどうでしょう、私どものこの心行なら心行一つでもです、もう大抵心行に取り組んでいると思うけれどもです、昨日、池田先生が発表しておりましたように、もうこの頃は表行全廃、心行心行と言われるから、もう一日中心行心行と思うておるようであって、でけていないことに驚く。
だからそういう行に取り組むのですから、ね、ただ、お風呂場と便所場だけに心行を使うというのじゃ決してないのです。
ね、夕べも遅う回って参りました。むこうの手洗いに行きましたら、どなたかあそこにタオルを掛けておられた。
あれに、しかしいけませんね、あれは見苦しいです。だからすぐ取り除くように申しましたことでしたけれど、ね、お手洗いに行ってハンカチも持って来んなことで良かろうはずはないです。しかもあそこにタオル、もうほんとに、なんかね、・・・・?
それから便所一辺どおり見せて頂いたら、昨日はお便所がもし汚れておるかもしれませんけれども、トイレットペーパーがきれいに折ってなかった。
どれもどこも、だから、いちいち入ってから、私はね、そうせんやならんというのじゃない。こうする心を皆さんに求めているのです。
ね、二つの便所、二つともあのただ、こう、いきなりちぎったなりであった。
ね、だから、決してなら、その私が言う心行とは、そこに心を使うことだということですけれども、それは決して、風呂場だけのことじゃない、お便所だけのことではありませんと、もちろん、もう四六時中、そういう心を使うこと。神様に喜んで頂くような心の状態、人が喜ばれるだろうという心の状態、ね、こげんしとったならば、ね、みんなが気持が良いだろうと、というふうに心をつこうて行くことなんです。
そこでいよいよ私どもがマスターしなければならないことは、今日まで私どもが取り組んできた成り行きを大切にする、なぜ成り行きを大切にしなければならないのか、成り行きをいよいよ大切にしてみると、実際はまた分らないことがある。ね、皆さんも知り抜いておられるように私が椛目時代に、四年半というのはもう、これは徹底した成り行きを大事にする生き方でした。
ね、四年半した時に、神様が、ね、あのほうれん草のお知らせを頂いて、ね、四年半してきた修行は、ほうれん草を引っこ抜いて来て、髭も赤い葉も、ちっとだん砂やら泥やら付いておる、そのままじゃきじゃきしながら食べておったようなもんなんだ。これからはきれいにあろうて、いらんとこの根はちぎって、ね、赤い葉は取って、栄養になるとこだけを頂くようにというのが今日の合楽の成り行きを大事にするのです。
昨日もある方が、今、もう大変な、ま、本人としちゃ問題、だからもうこれは成り行きとして受けなければいけんでしょうかというお伺いに対して、私は、ね、ここでは成り行きを尊ぶとか頂くとかという前に、成り行きを願わなければいけません。
ね、そいでそこにです、枯葉のような、ね、これはたとえばなら、ね、金を貸してくれととか金をくれというような場合なんかです、ね、それこそ、これは成り行きじゃけんちゅうちから貸してやったりするということが、信心じゃないのだ。
摘み切らなきゃならんところは、摘み切って頂いていくのが、ほんとの意味での成り行きを大切ににすることだというふうに段々分ってきます。
ね、御の字を付けて御事柄として、ね、いわゆる寛大の寛の字、いよいよ心を広う大きくしていこうという信心をお互いさせて頂いて、これではほんとじゃなかったことに気付かせて頂いて、ね、今まで成そうと思えば子供でも成せれるような事をおろそかにして来ておったことを、実意丁寧神信心を持って、このとこに取り組ませて頂こう、もうこれで言うならばおかげという意味においては、完璧だとも思われるくらいですけれども、その完璧の域に入った、それを自分のものにして行こうということは、一生がかりです。
一生かかってもでけんかも知れんです。
ね、けれどもそれを進めて行く限りです、私は広がりに広がるおかげが受けられると思います。
ね、だから、未完成のまま永遠にということは、合楽の信心を一通りマスターして、今言われておるところの心行が成された時に、初めて未完成のまま永遠にということがいえるのです。ね、例えて申しますとです、これから、日田の方へ参ると致します。ね、日田が目的なんです。ところが久留米の方へ向かって行ったらどういうふうになりますか。で、ね、そういういことがどうして日田が、日田がいつまでもこんじゃろうか、どうしてどうしてとこう言うて、はあ、未完成のまま永遠にという、そういうとこで頂いたらどういうことになる。もう、ほんとにいよいよ、ね、未完成のままおかげを頂かれんということになります。
けども本当なことへ向かっての未完成のまま永遠にということは、行けば行くだけ日田に近付いて行きよるのであり、ね、しかもそれはほんとの道を歩いて行おるのですから広がりに広がって行くおかげも伴うということです。
というほどしに、あの未完成のまま永遠にということは、今の合楽のためにある言葉だというふうにみなさん思われる、分らにゃいけんです。
ね、ほんとでもないことを本当だと思い込んで、そしておかげが受けられん、受けられんのは、まだ未完成のまま永遠にこれは続いて行くちゅうのじゃ、もういよいよ、つまりません。
ほんとなところへめざしをきちっと持つという、だから合楽の今の信心はです、ね、いわゆる理論的にも、ね、いわゆる合楽理念と言われるその理念のところも分らしてもろうていよいよその心行に取り組んで行かなければならないということです。
だから、合楽の場合は、今ただいま、そういう未完成のまま永遠にというのは、今の合楽で初めて言えれることだというふうに皆さんが頂き分った、分らなければいけんのです。ね、そしてそれに一歩一歩前進していく精進をしなければいけんのです。
精進してみると分らんところがもう分りきったようであって、分り切っていないことが沢山あります。
ね、そういう信心を私はさせて頂くところからです、ね、私はこの八十八節の、ね、これは、このとおりであるならばこれは信心のないものでも同じようなことを言うたり、思うたり致します。
先日、竹葉会の方達の招待で、あの精進料理を食べに行きました。
お土産にあちらのお尚さんが書かれたものを頂いて参りました。見事な字が書いてある。お坊さんは皆、字が上手ですね。読んでみましょう。
川という題で、次のようなものを・・?
底の浅い川は、水の音を立てて流れる。水の深い川は、音なく、声無く流れる、心浅い人は、音を立てて吠える。心深い人は音なく満ちた潮のように静かだ。そういうのです。
ね、心の深い人はがたがた言わんちゅうのです。ま、これが妥当かどうかということは、また疑問ですけれどもね。
けれども、ほんとに言わんで済むということはそれこそ深い、いうならば川の流れのようなものじゃないでしょうかね。
浅いところは、いわゆるせせらぎと申します。だからせせらぎの音がするわけです。
自分の信心の心の浅さ、深さをいわば、ひとつ測ってみる、というような意味ではこの歌はある意味で素晴らしいと思うですね。
自分ががたがた言っとる。心が浅い証拠だと、今日の御理解も黙って治めるということは、そういう深さを自分の心の中に頂いて行く。
そういう深さを頂いて行くということは、たとえば辛いとか悲しいというそのこと自体が、問題になる。
これは辛いことではない、悲しいことではない、神様がいよいよ大きくなれ、神様がいよいよ深くなれと言うて下さってある神愛だと分らして頂く時に、お礼を言う心、それこそ鏡を立てんでも心は穏やかですから、顔もまた穏やかになることがでける。
そして黙って治めていけれるわけになります。
ね、八十八節をいよいよ広がりに広がっていく御教えとして、頂きとめていくならばです、今の合楽の信心を一通りマスターして、いわば分って、しかもそれに欠けておった成せばなること、子供でもでけるような事柄をおろそかにしておったこと、御粗末にしておったことを気付いて、はあ、これがおかげん頂けん元だったな、ここからおかげが漏れよったなーと、たとえば昨日の富永先生が本気でそのことをチャット心に響きを持って頂かれたようにです、ね、これからまた日奈久教会のごひれいが、またそれこそ今光教というように、おかげを頂いていくだろうと、何かお礼に出てきたことを大変有り難いというて、ま、帰られましたようにです、そこにそれを頂いたとき、もうその時点で、やろうという気にならなければだめです。聞いておるだけでは駄目です。
ね、それを本気でそれを行じようというと、またそこに分らないことがでけてきます。それをまた、分っていく、これはもういうならば生涯掛ってもでけないことかもしれませんけれども、それをいよいよ進めて行く、広めて行く、いうならば、これから日田に行くという、日田に行くということをはっきり方向を示されたようなもんですから、ね、一歩進めばもう一歩日田に近づいたわけですから、それだけのおかげが受けられるはずです。
ね、それに、何ぞや、久留米の方ども向いて行きよるならそれは、それはいよいよ日田からは、離れて行くことになります。
そういう意味ではです、なら、未完成のまま永遠にという言葉は当たりません。
妥当ではないのです。いよいよ本当のことにいうならば、向きを変えたとき、はっきりした・?はこちらだと分らして頂いたとき、この未完成のまま永遠にということになりましょう。
合楽の完璧の信心に入った、その入っただけではいけん。そこから一歩一歩完成を目指して、いうならばすすめて行かなければなりません。
実に有難いこと、実に楽しいこと、ね、マスターするということは私は体験を伴うたマスタ―でなからなければいけないと思います。
これも御大祭の時に富永先生が頂かれたというのですけれど、ね、どういうことか全然分かりませんけれども、空手ということ、あの空手とこうね、空手チョップというでしょう。空手、ね、どういうことでしょうかとこう言われる。
ね、それこそ金光様の御信心は、この空手で行くんです。無手勝流です。
あちらに頼み、こちらにすがるといったようなことでは、おかげに、本当のおかげになりません。もう頼むところは、お取次ぎ、頼むところは、神様以外にはない。
そこからしか、いうならば、ほんとの安心が頂かるようなものは生まれて参りません。
ね、それをもちっと厳しゅう言うと、昨日、あの順子さんが頂いたご心願の680であります。
徳を受けるということです。ね、六は徳、八は広がる、〇ということは、自分をいつも空しゅうしておくということです。
ね、神様が富永先生に、ね、空手でいけ、ね、・・?をもて、ね、いよいよ自分を虚しゅうしていけ、あれに頼んで、これに頼んで、といったような考え方を一掃していかなければいけませんよというて申しましたことでした。
神様が富永先生にそういうお知らせを下さるということは、ね、そういうおかげを下さろうとする働きなんです。
私がみなさんに日々さらな、いわば御教えを聞いてもらうということは皆さんにそういうおかげを頂かせようとする働きが、今朝の御理解になり、ね、また明日の御理解になるのです。
神様がおかげを下さろうとする思いを分らして頂いて、本気でその気にならなければ、やる気にならなければ、ね、ただ、いかに合楽の信心がです、完璧の域に入ったというても、入っただけではいけません。一歩一歩、ね、確かなものを頂き感じさせて頂きながら、進めて行く。はっきりとした焦点がそこに見える、これを、この生き方を身に付けてさえ行く限り、いよいよ広がりに広るおかげを受けられるということにことになるのですよね。どうぞ。